長崎へ - vol.37 - 長崎新地中華街 皿うどん
ブログの更新が少し空いちゃいました。
急な京都出張から戻り、いよいよ年度末に突入。お仕事でバタバタしてきました。
さてさて、昨年10月30日から2泊3日で訪れた長崎旅、前回の続きです。
長崎旅の最終日・3日目は、長崎市めぐり。
開国に伴い、大浦東山手外国人居留地が造成され、住宅、領事館、教会、ミッションスクールなどが建てられた東山手エリアを散策。
明治20年代後半頃に建築された7棟の東山手洋風建築群をめぐりました。
時刻は11時30分。
朝から坂道を歩き回って、お腹はグーグー。
長崎新地中華街でのランチです!
早速、路面電車で移動ですが、その前に、・・・
長崎孔子廟(中国歴代博物館)
東山手洋風建築群から少し坂を下って、ほど近く、こちらは長崎孔子廟。
明治26年(1893年)、中国清朝政府と在日の華僑の方々の協力によって建造された長崎孔子廟には、七十二賢人石像などが納められ、中国歴代博物館が併設されています。
時間があれば、ゆっくり見学させていただく予定でしたが、空腹でもありまして、外壁だけをパシャパシャと。
路面電車で石橋から新地中華街まで、約5分の移動です。
長崎新地中華街
横浜中華街、神戸南京町とともに、日本三大中華街の一つに数えられる長崎新地中華街。
以前ブログで、横浜中華街と神戸南京町について綴りましたので、これで三大中華街をコンプリートであります。
江戸時代の最盛期には、長崎の人口は約7万人でしたが、うち中国人の方々(主に福建省出身)が約1万人おられたそうです。
鎖国下、中国人の方々の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されていましたが、元禄11年(1698年)頃、唐船専用の倉庫を建てるため、唐人屋敷前面の海を埋め立て、倉庫区域が造成され、新地と呼ばれるように。
その後の開国に伴い、唐人屋敷から多くの方々が新地に移り住み、長崎新地中華街が形成されることになりました。
なので、長崎新地中華街は、日本三大中華街の中で最も古い歴史を持っています。
玄武門(北門)
東西南北全ての入り口に中華門が立っていますが、こちらは北門・玄武門。
南北約250メートルの十字路には、中華料理店、雑貨屋さんなど、約40軒が軒を連ねています。
蘇州林
飲茶・ちゃんぽん 蘇州林 (ソシュウリン) - 新地中華街/中華料理 [食べログ]
数あるお店の中から、今回は蘇州林(そしゅうりん)さんをチョイス。
長崎旅の初日に、四海樓さんで長崎ちゃんぽんをいただきましたので、・・・
今回は、もうひとつの長崎名物・皿うどんをオーダーしました。
パリッパリの極細麺に、海鮮、シャキシャキお野菜の具がたっぷりと。
すっごいボリュームです。
ところで、揚げ麺なのに、どうしてうどんって言うのか昔から不思議に思っていましたが、・・・
ちゃんぽんと同じく、皿うどんを考案したのは、四海樓の創業者で中国・福建省出身の陳平順(ちんへいじゅん)さんのようです。
創業時、中国のうどん「しなうどん」を提供されていましたが、中国人留学生のために、安くてボリュームがあって栄養満点の食事をという思いからちゃんぽんを考案。
その後、ちゃんぽんを炒めたスープなしのものを浅い皿に乗せて生まれたのが皿うどんで、原点回帰でうどんの名が復活したようです。
ハトシ
こちらは、中国から長崎に伝わり、長崎の郷土料理となっているハトシ。
食パンの間にエビのすり身が挟まれ、油で揚げられています。
初めていただきましたが、パンのサクサク、エビのプリプリがとっても楽しい食感。
朝から長崎市内を駆け回って、お腹ペコペコでしたが、すっかりフル充電であります。
湊公園
食後、中華街南側の湊公園で一休みです。
朱雀門(南門)
時刻は、もうすぐ午後1時。
17時55分長崎空港発の飛行機を予約しており、長崎市内めぐりのリミットは午後3時頃。
さて、残り時間でどこに行きましょう?
今回はこの辺で。
次回、長崎めぐり続きます。
ではでは。
1.東山手洋風住宅群 2.長崎孔子廟(中国歴代博物館) 3.玄武門(北門)
4.長崎新地中華街 5.蘇州林 6.湊公園