鞆の浦へ - vol.2 - 常夜燈 太田家住宅
昨日のお昼、ツルッと涼やかなランチにしようと、コンビニでざるそばを購入。
店員さんに「温めますか?」と尋ねられ、「はい。」と返事をしてしまい、危うくチンしてしまうところでした。
わたしも店員さんも、すぐにおかしなことに気づいて事なきを得ましたが、お互い暑さでボーッとしていたみたいです。
さてさて、2019年9月の広島県・鞆の浦、尾道の港町めぐりの旅、前回の続きです。
御舟宿いろはさんでランチをいただき、準備万端!
観光案内所でもらった観光マップを片手に、鞆の浦散策をスタートです。
http://www.fukuyama-kanko.com/common/material/pamphlet/file1/20190607160926076856.pdf
まずは、鞆の浦のシンボル・常夜燈へ。
いいお天気で、めちゃめちゃ気持ち良い〜。
鞆の浦は、古くは万葉の時代から海運の要衝で、瀬戸内海で最も栄えた港町の一つ。
昔は、潮流の変化を待って航海をしなければならず、瀬戸内海の中央に位置する鞆の浦は、「潮待ちの港」と呼ばれ繁栄したそうです。
常夜燈
鞆の浦のシンボル・常夜燈。
安政6年(1859年)に建造された灯台で、高さは約5.5m。
上の写真、少し分かりづらいと思いますが、常夜燈の右下に石の階段が見えるでしょうか。
こちらは、文化8年(1811年)に建造された石階段の雁木(がんぎ)。
潮の干満の影響を受けずに、積荷の揚げ下ろしができるようになっていて、これ程の規模の雁木が現存しているのは鞆港だけ。
雁が飛ぶ様子に似ていることから雁木と呼ぶそうです。
また、鞆の浦には、江戸時代の港湾施設として必須アイテムとなっていた常夜燈、雁木、波止(はと:高波から港を守る防波堤)、船番所(入出港する船の安全を監視)、焚場(たでば:木造船の船底を火で焼き乾燥させて、フジツボなどから船を保護。船の修理も行われ、ドックの役割も)といった5つの施設が全て残っていて、日本で唯一なんですって。
いろは丸展示館
こちらは、江戸時代の土蔵を改修して、平成元年(1989年)にオープンしたいろは丸展示館。
前回のブログで綴りましたが、慶応3年(1867年)に起きた、坂本龍馬の海援隊が借り入れていたいろは丸と紀州藩の軍艦・明光丸の衝突沈没事件に関連する遺物や写真が展示されている博物館です。
建物は、国の登録有形文化財に登録されています。
夕景の常夜燈がまた格別とのことなので、一旦常夜燈を離れ、辺りを散策です。
鞆の浦で目を引いたのが、至るところに掲げられた森下仁丹の看板。
それもそのはず、鞆の浦は森下仁丹の創業者・森下博さん(1869-1943)の生誕の地。
古い街並みにレトロな看板が似合いますね。
太田家住宅(旧保命酒屋)
国の重要文化財に指定される太田家住宅。
元は、保命酒屋を営んでいた中村家によって、江戸時代の中期から後期にかけて増築された建物で、明治時代に入り、廻船業を営んでいた太田家に引き継がれたものです。
万治2年(1659年)、大坂から鞆の浦に移り住んだ漢方医・中村吉兵衛さんが漢方薬酒・十六味地黄保命酒の製造・販売を開始。
麹、もち米、焼酎に16種類の生薬が漬け込まれた保命酒(ほうめいしゅ)。
長生きできちゃいそうなネーミングですね。
伝統を受け継いで、保命酒の製造を行う蔵元は4軒あるみたいです。
旧保命酒屋にまつわる話をもうひとつ。
文久3年(1863年)、政変により京を追われた尊王攘夷派の三条実美たち7人のお公家さん。
京から長州へ逃げる途中で鞆の浦に寄港し、一番大きなお屋敷であった保命酒屋に宿泊。
三条実美は、保命酒のあまりの美味しさに、歌を詠んじゃうほど感銘を受けたそうです。
「世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて嘗むるも めずらしの世や」
(※竹の葉=保命酒)
ここからは、古い街並みをパシャパシャとスナップです。
♫ ポーニョ ポーニョ ポニョ、さかなの子〜 ♪
今回はこの辺で。
次回、鞆の浦めぐり続きます。
ではでは。
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