長崎へ - vol.39 - 出島和蘭商館跡
さてさて、一旦中断いたしましたが、昨年10月30日から2泊3日で訪れた長崎旅の続きです。
(今回を含め、あと2回で長崎旅の記事は終わる予定ですので、もう少しお付き合いを。)
長崎旅の最終日・3日目は、長崎市めぐり。
眼鏡橋をめぐり終えると、時刻は午後1時30分。
17時55分長崎空港発の飛行機を予約しており、長崎市内めぐりのタイムリミットは午後3時頃。
あと訪れることができそうなスポットは1つぐらい。。。
お目当てのスポットとして、長崎駅周辺の日本二十六聖人記念館、聖フィリッポ西坂教会などがありましたが、やっぱり出島を外すわけにはいきません!
というわけで、路面電車でめがね橋電停から、またまた新地中華街電停へ。
新地中華街電停
新地中華街電停は、1号系統、2号系統、5号系統が乗り入れる乗換停留場なので、今回の長崎旅でいちばん乗り降りをしました。
電停前には、十八親和銀行・本店(上の写真左側の大きな建物です)があるのですが、その建物の横に、・・・
なんばんえびす
何とも可愛らしい像が。
旧十八銀行の創立100周年を記念して建てられたみたいです。
えびす様なので、鯛を抱えていますが、お顔は彫りの深いポルトガル風。
えびす様の場所から、中島川を挟んで向こう側、出島の建物が見えます。
こちらは、出島和蘭商館跡の旧出島神学校。良い感じですね〜。
中島川に架かる出嶋橋を渡って、商館跡の正面へ回ります。
出島和蘭商館跡
ここで出島の歴史を少し。
天文12年(1543年)、種子島を通じた鉄砲伝来によって始まったポルトガルとの交易。
元亀2年(1571年)には長崎港が開港。江戸幕府も当初、貿易を奨励していたため、ポルトガル貿易はさらに発展します。
交易が進むにつれ、キリスト教信仰も広がり、これを危険視した幕府は、慶長17年(1612年)、キリスト教禁止令を発令します。
寛永13年(1636年)、キリスト教の布教を阻止するため、ポルトガル人を収容する施設として、日本初の人工島・出島が建設されました。
建設当初の面積は約15,000㎡で、海を埋め立てて築かれた島から築島(つきしま)、またその形状から扇島とも呼ばれたそうです。
出島完成の翌年・寛永14年(1637年)、島原の乱が起こり、幕府はカトリック国であるポルトガルと断絶し、出島からポルトガル人が追放されます。
ポルトガルに代わって、幕府はオランダとの関係を深め、寛永18年(1641年)、平戸から出島へオランダ商館を移転し、安政6年(1859年)の閉館までの約218年間に渡って、出島は日本唯一の貿易の窓口となりました。
(この前日に平戸和蘭商館跡を訪れていたので、歴史の流れがすんなり頭に入ってきました。でも幕末って、ややこしくて苦手です。。。)
長崎へ - vol.23 - 平戸 平戸港 平戸オランダ商館 - 旅とカメラとわたしと。
大正11年(1922年)、出島和蘭商館跡として国指定史跡となった出島ですが、明治以降、周辺の埋め立て等によって陸続きとなり、扇型の原形が失われてしまいます。
現在は、長崎市によって復元整備事業が進み、完全復元が計画されています。
さて、話が長くなっちゃいましたが、こちらは出島の対岸にある出島表門橋公園。
オランダ生まれのミッフィーがかくれんぼをしています。
出島表門橋
平成29年(2017年)2月、新たに架けられた表門橋。
長さ約38m、重さ約50トンの金属製の橋ですが、国指定史跡である出島を傷つけることはできず、そのため出島側に橋の土台を作らずに、出島対岸の公園側のみでバランスをとって支えるテコの原理を用いた構造となっています。
美しい曲線を描く表門橋を渡って、出島和蘭商館跡へ。
まずは、こちらの建物から見学です。
旧出島神学校
明治11年(1878年)、聖アンデレ神学校の校舎として建てられた旧出島神学校。
現存する日本最古のキリスト教神学校で、昭和52年(1977年)から約3年かけて修理・復元されたものです。
現在は、出島資料館として活用されています。
外観の薄い水色が良いですね。こういう感じの色、大好きです。
旧長崎内外クラブ記念館
明治32年(1899年)、倉場富三郎さん(グラバー邸のトーマス・ブレーク・グラバーさんの息子さんです)、横山寅一郎さん、荘田平五郎さんたちの発起によって、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として、社交クラブ・長崎内外倶楽部が設立され、こちらは、明治36年(1903年)に建設された倶楽部の建物です。
英国式の建築で、旧リンガー住宅でお馴染みのフレデリック・リンガーさんによって建てられました。
長崎へ - vol.8 - グラバー園 旧リンガー住宅 旧長崎高等商業学校表門衛所 - 旅とカメラとわたしと。
現在、1階部分はレストランとして、2階部分は展示室として使われています。
隠れていないミッフィーもいます。
陶製の門柱
オランダ・マーストリヒトにあるペトルス・レグー社製の陶器でできた門柱です。
出島にあった店舗の門柱として使われていたようで、昭和29年(1954年)に移築されました。
ペトルス・レグー社の窯で焼かれた印が刻まれています。
ミニ出島
こちらは、昭和51年(1976年)に制作された1/15スケールの出島の模型。
精巧に作られています。
旧石倉(考古館)
江戸幕末の頃の商社の石倉です。
現在は、出島の発掘調査で出土した資料を展示する考古館として使われています。
所狭しと復元建物が並んでいて、時間がいくらあっても足りませんが、タイムリミットが迫っていて、ほぼ駆け足に近い足取りでめぐります。
カピタン部屋
こちらは、カピタンと呼ばれたオランダ商館長の事務所兼住宅として使われたカピタン部屋。
出島で最も大きい建物です。
復元された建物がたくさんあって、時間があれば、もう少しじっくり見学したかったのですが。。。
今回はこの辺で。
次回、長く綴ってきました2泊3日の長崎旅も、ついに最終章。
旅の締めくくりは長崎港へ。
ではでは。
1.長崎電気軌道・新地中華街電停 2.十八親和銀行・本店 3.なんばんえびす
4.出島表門橋公園 5.出島表門橋 6.出島和蘭商館跡
福井・敦賀へ 金崎宮 敦賀赤レンガ倉庫 人道の港・敦賀ムゼウム
少しブログの更新が空いちゃいました。
怒涛の年度末、年度始めの山を越えまして、ちょっと一息という感じです。
新年度を迎え、オフィスの顔ぶれも少し変わりました。
心機一転、今年度も頑張るぞ〜っと。
さてさて、先日3月27日の福井県・三方と敦賀へのお出かけ、前回の続きです。
三方では、うなぎや源与門さんで久しぶりのうな丼をいただきまして、ず〜っと行ってみたかった福井県年縞博物館を訪問。
お次は、敦賀に向かいまして、お花見です。
福井県年縞博物館のある縄文ロマンパークから、国道27号線で約30分の移動。
敦賀赤レンガ倉庫
大阪から福井に移り住んで、もうすぐ8年が経ちますが、敦賀は幾度となく訪れた街です。
過去、このブログで敦賀へのお出かけについて綴ったつもりでいましたが、今回初めてなんですよね。意外でした。
敦賀で一番好きなスポットは敦賀港エリアで、こちら敦賀赤レンガ倉庫はランドマーク的存在です。
明治38年(1905年)、米国の紐育(ニューヨーク)スタンダードカンパニーによって、石油貯蔵用倉庫として建設された敦賀赤レンガ倉庫。
敦賀は古くから、日本海を介して大陸との交流が盛んに行われた交通の要衝で、明治15年(1882年)には、日本海側では初となる敦賀と滋賀県・長浜を結ぶ鉄道が敷設されます。
さらに、明治35年(1902年)、敦賀〜ロシア・ウラジオストク間の直通定期船の就航が開始されると、明治45年(1912年)には、東京・新橋駅と敦賀・金ヶ崎駅を結ぶ直通列車・欧亜国際連絡列車(ボート・トレインと呼ばれるそうです)が運行されるようになります。
欧亜国際連絡列車は、ウラジオストクからシベリア鉄道を経由して、パリまでつながっていたそうです。
鉄道と港とともに発展した敦賀。
敦賀赤レンガ倉庫は、当時の繁栄を象徴する建物で、平成21年(2009年)、国の登録有形文化財に指定されています。
倉庫の横には、敦賀ゆかりの急行わかさが展示されています。
キハ28形の列車で、昭和30年代から平成10年頃まで小浜線を運行していたそうです。
敦賀赤レンガ倉庫は、平成27年(2015年)にリニューアルオープン。
敦賀の街並みを鉄道と港のジオラマで再現したジオラマ館、レストラン館を備えています。
こちらは、赤レンガ倉庫前に立つぐるっと敦賀周遊バスのバス停。
「鉄道と港の街」にちなんで、鉄道=銀河鉄道999、港=宇宙戦艦ヤマトと、敦賀の街には松本零士さんの両作品のキャタクターがいっぱいです。
さてさて、敦賀でのお花見です。
お花見スポットとして選んだのは、金崎宮(かねがさきぐう)。
赤レンガ倉庫のすぐ近くです。
上の写真は、金崎宮の石階段参道で、参道に沿って桜が咲いています。
参道を目指して、テクテクと。
敦賀港線跡
途中、線路跡が。
戦後は、JR北陸本線の貨物支線として利用されていましたが、2019年に廃止されています。長い間お疲れ様でした。
少し鉄道の話が長くなっちゃいましたが、金崎宮・参道に到着です。
金崎宮(かねがさきぐう)
参道
境内まで続く約150mの石階段をえっちらおっちら上がっていきます。
あぁ〜、良い眺め。
鳥居をくぐって、境内へ。
舞殿
桜はまだ五分咲きぐらいですが、キレイですね〜。
提灯に「花換まつり」とあります。
花換まつり(はなかえまつり)は、桜が咲き誇る約10日間に渡って催されるお祭りで、今年は4月1日から4月15日まで開催されます。
訪れたのは3月27日で、ちょうどお祭りの準備中でした。
明治40年頃に始まった花換まつりは、金崎宮で授かった桜の小枝を「花換えましょう」と声を掛けて、思いを寄せる相手と交換し合うという、とってもロマンチックなお祭り。
恋愛成就の「恋の宮」としても人気なんですよ〜。
独身こじらせ三十路のわたくしは、ソーシャルディスタンスをしっかり保って、桜撮影に没頭であります。
御本殿
尊良親王(たかながしんのう)と恒良親王(つねながしんのう)がお祀りされています。
足利尊氏の入洛により、新田義貞とともに敦賀・金ヶ崎城に入城された両親王ですが、延元2年(1337年)、足利勢との戦いに敗れ、亡くなられてしまい、金ヶ崎城も落城となります。
明治に入って、地元敦賀の方々の請願によって、金崎宮は創建されました。
また、金崎宮から山を登っていくと、金ヶ崎城跡が残っています。
貨物支線だった敦賀港線跡が見えます。
鉄道コンテナが残されていて、味わいのある景色です。
たっぷりとお花見を愉しみまして、金崎宮から下りてくると、・・・
レトロな外観の建物が見えてきました。
人道の港・敦賀ムゼウム
こちらは、昨年2020年11月にリニューアルオープンした資料館、人道の港・敦賀ムゼウムです。
欧亜国際連絡列車を経由して、ヨーロッパ各都市と結ばれていた国際港・敦賀港。
1920年代には、ロシア革命で家族を失ったシベリアのポーランド孤児が、また、1940年代には、リトアニア日本領事館外交官・杉原千畝さんが発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本唯一の港です。
(杉原千畝(すぎはら ちうね)さんは、日本のシンドラーとして有名ですよね。ナチスの迫害を受けて、ポーランドからリトアニアに逃げてこられたユダヤ難民に、日本本国の命令に背いて、「首になっても構わない、人道上拒否できない」と、2,139通もの命のビザを発給したそうです。すっごい人です。)
人道(困った人がいたら助ける)の港・敦賀ムゼウムは、孤児・難民を受け入れた敦賀の歴史を伝える資料館。
ちなみに、ムゼウムとは、ポーランド語で資料館の意味だそうです。
ムゼウムは、大正から昭和初期にかけて実際に敦賀港にあった建物4棟を復元した外観になっています。
税関旅具検査所棟
敦賀港駅舎棟
大和田回漕部棟
ロシア義勇艦隊事務所棟
最後は、敦賀港の目の前に広がる金ヶ崎緑地へ。
金ヶ崎緑地
金ヶ崎緑地では、毎冬、北陸最大級の敦賀港イルミネーション・ミライエが催されます。
写真は、2017年に訪れたミライエです。キレイですよ〜(メチャ寒いけど。。。)
ポカポカ陽気で、港の潮風が心地よかったです。
今回は、何だか内容てんこ盛りになっちゃいました。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
まだまだ敦賀の魅力をお伝えしきれていませんので、またブログでご紹介できればと思います。
今回はこの辺で。
次回、長崎旅に戻ります。
ではでは。
1.敦賀赤レンガ倉庫 2.金崎宮 3.人道の港・敦賀ムゼウム 4.金ヶ崎緑地
福井・三方へ 福井県年縞博物館 うな丼
約4ヶ月超にわたって綴ってまいりました、2020年2泊3日の長崎旅。
あと2回程で終焉を迎えそうですが、少しここで中断しまして、・・・
福井市内の桜は5分咲きぐらいですが、三方、敦賀の嶺南は咲き始めとのこと。
今日3月27日は全国的に春の嵐が吹き荒れる予報でしたので、ポカポカ陽気に誘われて、ソーシャルディスタンスを保った純粋なお花見がてら、久しぶりのお出かけです。
まずは三方へ。
福井市から北陸自動車道で「敦賀IC」まで。「敦賀IC」からは舞鶴若狭自動車道で「若狭三方IC」まで、トータル1時間ちょっとのドライブです。
以前のブログでご紹介しましたが、・・・
三方に行くとなると、うなぎを外すわけにはいきません。
うなぎや 源与門(げんよもん)
源与門さんへは、約3年振りのご訪問。
最近お仕事頑張っていましたので、自分へご褒美ランチです。
お庭の桜がキレイに咲いていました。
うな丼(上)をいただきました!
関西風で、皮はパリッと香ばしく、身はふっくら。
美味しかった〜。
食後、お庭の桜をパシャパシャと。
さてさて、お次は、ず〜っと行ってみたかった福井県年縞博物館へ。
三方湖の畔、博物館のある縄文ロマンパークへ移動です。
縄文ロマンパーク
こちらが福井県年縞博物館。細長い建物です。
若狭三方縄文博物館
縄文ロマンパークの中心施設、 若狭三方縄文博物館。
平成12年(2000年)に開館し、昭和37年(1962年)に三方湖近くで発見された鳥浜貝塚の出土品などが展示されています。
丘のような建物ですが、土偶のお腹をイメージしたものみたいです。
少しパーク内をブラブラと。
さて、いざ年縞博物館へ。
福井県年縞博物館
平成30年(2018年)9月にオープンした福井県年縞博物館。
年縞(ねんこう)って、聞き慣れない言葉ですが、・・・
「長い年月の間に湖沼などに堆積した土などの層が描く、特徴的な縞模様の湖底堆積物」とのこと。
三方五湖のひとつ、水月湖(すいげつこ)は年縞が形成される環境としては理想的な湖で、平成5年(1993年)のボーリング調査で、水月湖の年縞が45m連続していることが発見されました。
博物館には、世界一の長さを誇る、水月湖から掘り出された約7万年分・45mの年縞がステンドグラスとして展示されています。
横に長〜い建物ですが、45m続く年縞をそのままスッポリ展示するためなんですね。
三重県鳥羽市の海の博物館などを手掛けられた建築家・内藤廣(ないとう ひろし)さんの設計です。
年縞の展示室は2階部分となりまして、その1階部分はピロティ。
ピロティ奥のエントランスから入館です。
1階の180°スクリーン・年縞シアターで、年縞の基礎知識をお勉強しまして、2階の展示室へ。
さすが45mの長さ! 圧巻ですね。
直近の年縞、2014年からスタートです。
1年に1層、約0.7mmの堆積物が積もって、45m・約7万年分。
上の写真の左側が2014年で、右側までで約5,000年分になります。
ボーリングによって異なる3ヶ所から採取された年縞が、上下3段に展示されています。
1年の欠けもないことから、水月湖年縞のデータを基に作成されたIntCal(イントカル)が、平成24年(2012年)、歴史の年代決定のための世界標準のものさしとして採用されています。
木材の天井と黒のトラスがキレイですね〜。
春から秋にかけて水中のプラントンなどの死骸が積もって黒い層を、秋から冬にかけて大陸からの黄砂や鉄分が積もって白い層をそれぞれ形成して、1年で黒と白一対の縞模様となるそうです。
約7万年前の年縞に辿り着きました。
年縞ギャラリーの反対側に回りまして、こちらは、水月湖年縞の解説、世界の年縞、はかりなどを展示するギャラリーとなっています。
文字通り、地球の歴史の厚みを感じました。
博物館を後にしまして、駐車場から山桜をパシャリ。
お次は、敦賀に向かいまして、お花見です。
今回はこの辺で。
ではでは。
1.うなぎや 源与門 2.縄文ロマンパーク 3.若狭三方縄文博物館
4.福井県年縞博物館